2020.08.13
夕方から突然の雷雨でしたが、
朝から多くの方々がお墓参りに来られました。
杉や欅、楠の木が無くなったのでとっても明るくなりました。
明日は檀信徒の方々の新盆供養法要です。
住職と二人で勤めさせて頂きます。
『盂蘭盆会御詠歌(迎火)』5・7・5・7・7
【子等(こら)の焚(た)く 迎火の 炎(ほ)の さぐらぐは
みたまの母の 来たまえるらし】
今では厳しいかもしれませんが、盆入りの夕方、自宅前で火を焚き、その炎がそよそよと吹く風に揺らぎ
ご先祖様の”み霊”をお迎えし、「今年もお盆を迎えることができ、ご先祖さまがかえってきたんだなぁ」と
この歌詞はその情景を思い浮かぶかと思います。
「みたまの母」とありますが、
母だけではなく、ここでは、
亡き人や、ご先祖さまと解釈していただけたらと思います。
岡本和行さんの蓮展より
2020.06.30
梅花替節として
若干のメロディーを変えた曲
「高祖常陽大師道元禅師第二番御詠歌」
この歌詞も道元禅師さまの詠んだ和歌の一首です。
『水鳥の往(ゆ)くも帰るも跡絶えて
されども道は忘れざりけり』
水鳥が水面を泳いでいます。右へ左へと自由自在に泳いでます。
水の中ですので泳いだ際の波はたちまち跡形もなくなります。
ですが、形跡はなくとも歩むべき道は忘れておりません。
2020.06.30
今月最終日です。
全国各地で大雨警報発令しているようです。
八王子も午後から雨となりました。
曹洞宗梅花流詠讃歌の「梅花」のタイトル1種4曲(節を少し変えた、替節含む)のなかの
「高祖常陽大師道元禅師第一番御詠歌」について
この曲は、密厳流の『密厳』というタイトルの曲よりメロディをそのままいただきました。ですので、梅花流の「梅花」となりました。
歌詞は道元さまのお言葉です。
『荒磯(あらいそ)の 波も得(え)よせぬ 高岩(たかいわ)に
かきもつくべき 法(のり)ならばこそ』
御詠歌ですので、五・七・五・七・七の三十一文字の短歌を詠んでおります。
なおこの歌詞は、『正法御和讃』の七五調の和讃の歌詞にも使われてもおります。
1243年 道元禅師さまは、
京都の南、深草の観音導利院興聖林禅寺(かんのんどうりいんこうしょうりんぜんじ)より
越前(福井県)志比へと移つられ、吉峰寺、大仏寺の建立をされ
1244年9月に大仏寺を永平寺と改められました。
それから1253年にご遷化されるまで、ひたすらに坐禅辨道、正法眼蔵の執筆等をなされました。
ですが、1247年8月より1248年3月までの半年間
一度だけ永平寺を離れ鎌倉へと布教教化に参られました。
その際、鎌倉幕府執権職の北条時頼との問答で
「仏法とはいかなるものか」
に対して詠まれたものが
「荒磯の波も得よせぬ高岩にかきもつくべき法ならばこそ」でした。
大きな荒波さえもよせつけないほど大きな岩にも、掻き付く海苔があるように、
どんなに険しく厳しいなかでも(当時戦乱中)、正しい仏の教えがあるならば
それを求め伝えようとする人々によって、書きつくし、書きのこされていくものである。
そのような思いのお言葉を北条氏にお答えになられた和歌です。
道元禅師さまは、道を求むる心があれば、必ず仏法が伝わるということを教えてくださいました。
私たちお唱えするものは、その想いを汲みながらしっかりと歌詞を詠み伝える必要があると言うことを忘れてはならないのです。
2020.06.23
ざっくりですが
曹洞宗の詠讃歌は
『梅花流』詠讃歌と言います。
昭和27年(1952年)の高祖常陽大師道元禅師七百回忌大遠忌の記念事業として、
曹洞宗の新たな布教活動方法の一つとして御詠歌の推進が始まりました。
昭和20年に第二次世界大戦終戦後から梅花流が設立される
この頃の時代を考えますと、
戦後ということで社会経済的に極めて厳しく困窮であったかと思います。
その暗い状況下を耐え忍んでいるなか、少しでも明るい兆しや思いを互いに共有することを布教方針に盛り込まれたのではないだろうか?
また、昭和22年曹洞宗大本山永平寺の貫主(住職)熊澤泰禅禅師が
「梅はこれ曲直硬軟槎槎牙牙多種多様にして、しかも凛乎として風致ほ保ち、山間に水村に所を厭わず寒苦を経て清香を発する」と
梅の素晴らしさを述べられております。
これにはもちろん前後があり、坐禅の布教や歴代の祖師方の寒苦の練行をもとにした話もございますが省略してます。
梅の花は、寒い冬をじっと耐え忍び、美しく香りのよい花を春に咲かす姿に重ねられ
戦後の困窮にあえぐ社会情勢にも、辛抱強く耐え抜き、来るべき開花の春を感じさせる明るい布教であったのではないかと思います。
同時期に熊澤禅師の補佐役、永平寺の監院(お寺の監督役)であったのが、静岡県洞慶院のご住職、丹羽佛庵老師でした。
曹洞宗の詠讃歌の流派が、「梅花流」となったのは、佛庵老師の尽力があったからこそなののです。
昭和26年9月8日にサンフランシスコ条約が調印されたことにより連合国が日本からの撤退が決定。
その12月に曹洞宗の詠讃歌が「梅花流」とされた経緯が発表され、それが残されております。
「正法流、芙蓉流、梅花流など、いくつかの名称が挙がったが、両祖さまに関係のある言葉を使用しなくては意味がないということから、高祖さま(道元禅師)の『正法眼蔵』「梅華」の巻および中国に在られた時の大梅山の「梅花の一枝」の霊夢、特に梅の花を好まれたこと、太祖さま(瑩山禅師)の『伝光録』中の「梅華」という言葉に因んで、梅花流の名称を、委員会において決定」
このように、何年もかかりながらもしっかりと土台の基を作られ少しずつ「梅花」という言葉を親しみやすくされた経緯もありました。
「厳しい寒苦の時を経て、清香を放つ」曹洞宗の詠讃歌、梅花流開花の時を迎えたのでした。
次回は、梅花流の曲の中の【梅花】
「高祖常陽大師道元禅師第一番御詠歌」を取り上げさせていただきます。
2020.06.20
昨日は梅雨空であり、気温も20℃にも達しませんでした。
そう言えば、梅雨(ばいう)という言葉は中国で生まれたようです。
「梅の実が熟す頃に降る雨」と言う意味で、「梅雨(ばいう)」と呼んでいたようです。
日本では、いろいろと言葉を関連つけたり、連想から「梅雨(つゆ)」と呼び始めたようです。
「梅雨」という言葉の前は、「五月雨(さみだれ)」と呼んでおり
「さ」は陰暦の五月(今は六月ですが)、「みだれ」は、「水垂れ」を意味するようでした。
春のお花見とは、昔は梅でした。
道元禅師さまは幼少期から和歌に親しまれておりました。
それは各地から新古今和歌集を編纂する方々が親族(身内もそのメンバー)と共に身近にいたからだという説もあります。
(道元禅師さまの父親も最近は定かではないとのことなので)
梅雨に因み、曹洞宗梅花流詠讃歌には、『梅花』というタイトルの曲
「高祖常陽大師道元禅師第一番御詠歌」があります。
曹洞宗の御詠歌は、昭和27年に発足しましたが、
その時に発表された曲が、「梅花」を含めた9種22曲でした。
この9種のメロディーは、各流派の詠讃歌の公聴をされ
(花園流・金剛流・菩提流・大和流・密厳流など)
検討した結果として密厳流の詠唱を梅花流の母体となりました。
今ではこちらの22曲は「伝承曲」として必修曲となっております。
真言宗密厳流の「密厳」が曹洞宗梅花流でも「梅花」のメロディーとなっております。
「梅花」4曲の歌詞は、もちろん道元禅師の詠まれた六十数首のなかの和歌であり、
瑩山禅師の曲では『洞谷記(とうこくき)』で詠まれた二首の和歌です。
「高祖常陽大師道元禅師第一番御詠歌」(梅花)
【荒磯(あらいそ)の 波も得(え)よせぬ高岩に
かきもつくべき 法(のり)ならばこそ】
紫陽花にクチナシ
清水
御縁をありがとうございます。
駒大高校、駒澤大学卒業後平成13年冬に大本山永平寺(福井県)へ安居(修行)。平成15年より北海道へ修行。平成23年4月より皎月院へと戻り副住職として補佐をさせて頂いております清水亨龍(こうりゅう)です。 合掌
私の趣味はクライミング、スノーボードなど身体を動かす事です。また旅行も大好きです。ぜひ皆さま気軽にメールやお電話お待ちしております。
どうぞよろしくお願いします
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