2022.02.11
『普勧坐禅儀』これより本論
「夫(そ)れ参禅は静室宜しく、飲食節(おんじきせつ)あり。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ること莫(なか)れ、豈坐臥(あにざが)に拘わらんや。」
【いざ坐禅をするときには、静かな部屋がよろしいです。飲食も食べ過ぎたり、空腹でなく節度を持ち、生活している中で心を乱すような拘りごとを投げ出し、この世の善悪をわずらわしくおもうことなく、思量の是非の分別することをやめましょう。
心の意識の働きや認識といった働きをやめ、念じる想像すること観察するなどの働きをやめ、仏になろう、さとりを得たいと思うこともやめるのです。ましてや坐禅をするときには、生活に関係なくすべてを解放しゆったりと坐ることなのです。】
坐禅は正に家で穏坐することがよろしいです
2022.02.11
『普勧坐禅儀』 序文最後です
「所以(ゆえ)に須らく言を尋ね語を逐うの解行(げぎょう)を休すべし。須らく回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼(いんも)の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を努めよ」
【当然ながら言葉や文字から概念を追いかけ解釈することはやめるべきです。為すべきことは、自己の内側から出てくる光で自己を照らし、謙虚?を学ぶべきである。身体と心のとらわれが自然と抜け落ち、本来の自己の顔が目の前にあらわれる。このような真実を得たいと思ったのなら、すぐさま坐禅をはじめることがよろしいです】
言葉を考えなおすことは難しいです
2022.02.02
『普勧坐禅儀』の続きを
「矧(いわ)んや、彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし、
少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名尚聞こゆ。
古聖既(こしょうすで)に然り、今人盍(なん)ぞ弁ぜざる。」
【ましてや、あの祇園に生まれながらにすばらしい智慧をもたれていられた釈尊も、六年間の苦行坐禅の跡かたを見るべきである
少林寺に(震旦初祖)菩提達磨大和尚が無上の悟りである仏心印を伝え、(二祖になる慧可大師に会うまで)九年間面壁坐禅わされた、その名声が今に伝わって聞くことができております。
古の聖人であられるお釈迦さまや達磨大師ですら、このように坐禅をされてこられたのです。今の私たちがこの道を進むなら坐禅をつとめないで良いのだろうか。】
2022.02.01
『普勧坐禅儀』
「直饒(たとい)、会に誇り、悟に豊かにして
瞥地(べっち)の智通を獲(え)、道を得、心を明らめて、
衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、
入頭(にっとう)の辺量に逍遥(しょうよう)すと雖も、幾(ほとん)ど出身の活路を虧闕(きけつ)す。」
【たとえ、解脱を会得したと誇り、悟りが十分だといっても
ちらりと智慧の道を覗いたにすぎません。禅の道を会得して、本心がわかったと、天を衝く程の心意気を挙げて
悟りのほとりの周辺を歩くようになったとしても、ほとんどがとらわれを飛びこえて自由に活動する道をうしなっている。】
2022.01.31
1月ラストですね
道元禅師さまが初めて書き遺された
『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)
すべての皆に勧める坐禅の教えです
『原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通(えんづう)、争(いかで)か修証を仮らん。
宗乗自在(しゅうじょうじざい)、何ぞ功夫(くふう)を費やさん。
況んや、全体迥かに塵埃(じんない)を出ず、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。
大都(おおよそ)、当処を離れず
豈修行の脚頭を用うる者ならんや。
然れども、毫釐(ごうり)も差あれば、天地懸(はるか)に隔たり、
違順纔(いじゅんわず)かに起れば紛然(ふんねん)として心を失す。』
【仏道というものは本来私たちに円満にそなわっているのであるから、敢えて修行して悟りを得るなどというよなことは必要ないのです。
あれこれいろいろと功夫を費やすこともいらないのです。
また、振り払うべき塵がなければ、振りはらうほこりもありません。
すでに悟りは行住坐臥の生活から離れているのであるから、
あえてわざわざ修行をする必要はないのであります。
本来そうではありますが、少しでも心得を間違ってしまいますと、
天と地ほどに隔たってしまいます。
そこに取捨選択、思慮分別の心が起こると、
たちまちに混乱してしまい本心を失ってしまいます】
道元禅師さまは、普勧坐禅儀の冒頭で私たちに坐禅の心得の間違いを警鐘を鳴らしております
正しい仏法における坐禅というのは
坐禅における「功夫を費やす」であったり
好き嫌いなどを立てて気に入るものだけに執着してしまい
気に入らないものを排除してしまうような傾向があります
そして、私たちには「道は本来円満にそなわつている」という思いになり
「修行」や「坐禅」はしなくても良いのであると
履き違えてしまうと指摘されております
清水
御縁をありがとうございます。
駒大高校、駒澤大学卒業後平成13年冬に大本山永平寺(福井県)へ安居(修行)。平成15年より北海道へ修行。平成23年4月より皎月院へと戻り副住職として補佐をさせて頂いております清水亨龍(こうりゅう)です。 合掌
私の趣味はクライミング、スノーボードなど身体を動かす事です。また旅行も大好きです。ぜひ皆さま気軽にメールやお電話お待ちしております。
どうぞよろしくお願いします
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