曹洞宗 常圓山 皎月院

皎月院TOP > 御詠歌 > 梅花

御詠歌

2020.06.23

梅花

ざっくりですが

 

曹洞宗の詠讃歌は

『梅花流』詠讃歌と言います。

昭和27年(1952年)の高祖常陽大師道元禅師七百回忌大遠忌の記念事業として、

曹洞宗の新たな布教活動方法の一つとして御詠歌の推進が始まりました。

昭和20年に第二次世界大戦終戦後から梅花流が設立される

この頃の時代を考えますと、

戦後ということで社会経済的に極めて厳しく困窮であったかと思います。

その暗い状況下を耐え忍んでいるなか、少しでも明るい兆しや思いを互いに共有することを布教方針に盛り込まれたのではないだろうか?

また、昭和22年曹洞宗大本山永平寺の貫主(住職)熊澤泰禅禅師が

「梅はこれ曲直硬軟槎槎牙牙多種多様にして、しかも凛乎として風致ほ保ち、山間に水村に所を厭わず寒苦を経て清香を発する」と

梅の素晴らしさを述べられております。

これにはもちろん前後があり、坐禅の布教や歴代の祖師方の寒苦の練行をもとにした話もございますが省略してます。

梅の花は、寒い冬をじっと耐え忍び、美しく香りのよい花を春に咲かす姿に重ねられ

戦後の困窮にあえぐ社会情勢にも、辛抱強く耐え抜き、来るべき開花の春を感じさせる明るい布教であったのではないかと思います。

同時期に熊澤禅師の補佐役、永平寺の監院(お寺の監督役)であったのが、静岡県洞慶院のご住職、丹羽佛庵老師でした。

曹洞宗の詠讃歌の流派が、「梅花流」となったのは、佛庵老師の尽力があったからこそなののです。

昭和26年9月8日にサンフランシスコ条約が調印されたことにより連合国が日本からの撤退が決定。

その12月に曹洞宗の詠讃歌が「梅花流」とされた経緯が発表され、それが残されております。

「正法流、芙蓉流、梅花流など、いくつかの名称が挙がったが、両祖さまに関係のある言葉を使用しなくては意味がないということから、高祖さま(道元禅師)の『正法眼蔵』「梅華」の巻および中国に在られた時の大梅山の「梅花の一枝」の霊夢、特に梅の花を好まれたこと、太祖さま(瑩山禅師)の『伝光録』中の「梅華」という言葉に因んで、梅花流の名称を、委員会において決定」

このように、何年もかかりながらもしっかりと土台の基を作られ少しずつ「梅花」という言葉を親しみやすくされた経緯もありました。

「厳しい寒苦の時を経て、清香を放つ」曹洞宗の詠讃歌、梅花流開花の時を迎えたのでした。

 

次回は、梅花流の曲の中の【梅花】

「高祖常陽大師道元禅師第一番御詠歌」を取り上げさせていただきます。

 

 

 

 

皎月院 こうげついん 副住職プロフィール

皎月院副住職 清水 亨龍

清水 亨龍 こうりゅう

御縁をありがとうございます。
駒大高校、駒澤大学卒業後平成13年冬に大本山永平寺(福井県)へ安居(修行)。平成15年より北海道へ修行。平成23年4月より皎月院へと戻り副住職として補佐をさせて頂いております清水亨龍(こうりゅう)です。 合掌

私の趣味はクライミング、スノーボードなど身体を動かす事です。また旅行も大好きです。ぜひ皆さま気軽にメールやお電話お待ちしております。

どうぞよろしくお願いします
(^人^)

カテゴリー

最新の投稿

アーカイブ