
2020.09.01
九月となりました。
私たちは日頃からお線香を香炉へ立てる時には、必ず前後左右に曲がっていないか?特に左右には注意をはらい、さらには香炉の中央へ立てるように気をつけています。
ですが、自分自身の心の状況や状態でそれがとても難しいこともあります。心静かに1つの事に集中できれば良いのですが、心が乱れているとお線香もゆがみがちです。
道元禅師さまのお言葉にも
『両手に香をささげて香爐(こうろ)にたつるなり、すぐにたつべし、かたぶかしむることなかれ。』
と
大切であることが伺えます。
お線香が例え真っ直ぐに立てたとしても、香炉や燭台など周りのもの全てが真っ直ぐでないと気持ちが悪くなってしまいます。こういった具体的なかたちを整える事によってこそ、生活のありようが正されるのだと祖父や師匠、そして永平寺での修行により教わりました。

一番手前のお焼香をする香炉が曲がってしまってます。これが特に気になってしまいます。

真っ直ぐにお線香を立てる。真っ直ぐに坐る。坐禅も心身も真っ直ぐにする大切をこの九月、お彼岸月ですので共に修行していきましょう。
2020.08.30
道元さまのお言葉として

『正法眼蔵』の「現成公案」より
『仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。』
があります。 これは
【仏道を習うということは、自己を習うのである。
自己を習うというは、自己を忘れるのである。
自己を忘れるというのは、大宇宙の真理にこの身を任せるのである。】
仏さまの生き方を身につけるということは、
自分自身とこの生きている世界を”究める”ことをいいます。
人というのは、
「自分の思い通りにしたい、思い通りになって欲しい」
という思いがあり、
思い通りにならないとき
悩みや苦しみなどの負の感情が生まれてしまいます。
また、思い通りにならない四苦八苦の悩みもです。
老いたくないのに老い、
病気になりたくないのに病におかされ、
死にたくないのに、必ず死を迎えてしまう。
人生とは何もかも自分の思い通りになるものではありません。
私たちの命もさまざまな条件によって成り立ち、その上で生かされているのです。
このように自覚することが大切であり、
仏道を学ぶということなのでもあります。

2020.08.30
自分のためにも汗を流す
ことはとても大切な行いです。
道元禅師さまは中国へ渡られ、おもに天童山景徳寺で修行されました。
その中で典座(てんぞ)と言う
修行僧の食事を準備する(料理人)老僧と出会いました。ある日の暑い昼過ぎ、老典座和尚が竹の杖を携え、笠も着けずに海苔を干す作業をされておりました。道元さまはその様子が気になられ、老僧と会話をされました。
道元さま「お年はおいくつですか?」
老僧「68歳になる」
驚かれながらも道元さまは「どうして若い者にやらせないのですか?」と尋ねられました。
老僧『他は是れ吾にあらず (他人は私ではない)』
道元さま「おっしゃる通りですが、何もこんなに日差しの暑い時にされなくても」
老僧『さらにいずれの時をか待たん』
海苔を干すのに暑い日差しの今以上に干すために良い時期がありますか。修行というものは、他人任せではなく、やらなければならないことは、やらなければならない時にやりましょう。それが一番大切である。

道元禅師さまの著書『典座教訓』に載っております。
2020.08.16
『若(も)し菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)して後六趣四生(のちろくしゅししょう)に輪転(りんでん)すと雖(いえど)も其輪転(そのりんでん)の因縁皆菩提(いんねんみなぼだい)の行願(ぎょうがん)となるなり』
これは道元禅師さまの『正法眼蔵』の渓声山色(けいせいさんしょく)の一文章であり
曹洞宗の修証義(しゅしょうぎ)という経典の第二十節
四章「発願利生(ほつがんりしょう)」の初めの方の一文にもあります。
これをわかりやすくしてみますと、
【もしも菩提心(仏教徒としての修行を志す心、思いを起こすこと)をおこしたのであれば、その後に地獄などと言った六道をめぐり、たとえさまざまな形で生まれ変わったとしても、そのことがそのまま因となったり、縁となったりされ、さとりへの道へと導かれるものである】と
このようにとらえるかと思います。
道を求める心、菩提心。
これは、やる気?とも解釈できるのかもしれません。
やる気を持ったということは、正しい道を正しく生きるために、正しい教えを聞こうと願われたということ。たとえ教えのとおりに実践できなくても、やる気をもっていれば、紆余曲折したり、左右にぶれているかのように思えても、しだいにそのふれ幅は狭まれていき、さとりの軌道をあゆまれているものなのです。
菩提心というやる気こそが大切なんでしょう。

札幌の浄國寺さまにて
2020.07.08
皆さまは普段足の裏を見ながら足を洗っておりますか?
かかとや土踏まず、足の指と指の間など、
道元禅師さまの本師である如浄禅師さまは、「坐禅修行の生活をする禅僧は、かならず足を洗いなさい」と指導されていたようです。
手の甲や足の甲はよく見えますし、大地に接触する機会が少ないです。逆に足の裏は常に大地を踏みしめ、掌により大地からの恵を感じております。ですが、坐禅をするには足を組みます。その時には足の裏は両方ともくるりと天の方に向き、法界定印の手を組みますと、ひらもまた天を向きます。
だからこそ手を洗い足の裏を洗うことを勧め、指導されたのでしょう。しかもそれが1225、6年頃 道元禅師さま26歳頃の話ですので大切にしなければなりません。

インド クシナガラにて
道元禅師さまの書物
『正法眼蔵』洗面の巻にて
「経行をはりて、さらに端坐坐禅せんとするには、かならず洗足するといふ。足けがれ触(そく)せるにあらざれども、仏祖の法それかくのごとし。」
このように坐禅と坐禅の間にも足の裏を洗うようにも記述され残されております。

清水
御縁をありがとうございます。
駒大高校、駒澤大学卒業後平成13年冬に大本山永平寺(福井県)へ安居(修行)。平成15年より北海道へ修行。平成23年4月より皎月院へと戻り副住職として補佐をさせて頂いております清水亨龍(こうりゅう)です。 合掌
私の趣味はクライミング、スノーボードなど身体を動かす事です。また旅行も大好きです。ぜひ皆さま気軽にメールやお電話お待ちしております。
どうぞよろしくお願いします
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