
2022.03.15
お釈迦さまの教えに
「少欲」「知足」があります
貧しいことが善でもなく
豊かなことが悪でもありません
貧富とは関係なく
貪欲になってしまったときの我々の心は
人としての美しい心
相手を想いやる心
自然やこの世を慈しむ心 など
失ってしまいます
仏心とは先ず
《足ることを知る心》
お釈迦さまの教えはズバリなのです
世界が平和になること
何よりも願いたいものてです

皎月院の梅華もキレイに咲いてました
2022.03.08
道元禅師さまの著書
『普勧坐禅儀』(すべての人びとにあまねく勧める坐禅の仕方)1227年
「然れば則ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。専一(せんいつ)に功夫せば、正に是れ弁道なり。修証自(おのずか)ら染汚(ぜんな)せず、趣向更に是れ平常なる者なり。
凡そ夫れ、自界他方、西天東地、等しく仏印(ぶっちん)を持し、一(もっぱ)ら宗風を擅(ほしいまま)にす。唯打坐を務めて、兀地に礙(さ)えらる。万別先差(まんべつせんしゃ)と謂うと雖も、祇管(しかん)に参禅弁道すべし。」
【坐禅において、頭が賢い人とか、ものわかりが良い悪いとかを選びません。利発であったり鈍感であったりの分け隔てることもありません。ただひたすらに信じて、一心に坐禅に励めば、それが本当の道の実践と言うものです。坐禅は修行でもあり悟りの姿でもあり、特別なものでもなく、難しいものでもない。心静かに坐ることで、あらゆる物事に対応しつつ動揺しないでもいられるものです。
大体において、お釈迦さまの世界、その他のあらゆる仏の世界(自界他方)、インドや中国、朝鮮や日本でも必ず坐禅を続け、禅の門風を振るってこられたのです。ただただ、無心に坐るということは、静寂な心にさまたげられて、他に目を奪われることにはなりません。多種の人類多様な仏道修行がありますが、心迷わず坐禅すべきである。】

2022.02.28
曹洞宗の主な修行と言えば『坐禅』です
1つのことに集中してまい進することこそ
「一行三昧いちぎょうざんまい」と言います
慌ただしい毎日の生活のなかで、坐禅は自分と向き合い、自分自身を顧みる為のものであると思います

2022.02.28
道元禅師さまの『普勧坐禅儀』より
本論の続き
「所謂(いわゆる)坐禅は習禅には非ず。唯是れ安楽の法門なり、菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成、羅籠未(らろういま)だ到らず。若し此の意を得ば、竜の水を得るが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。当に知るべし、正法自ら現前し、昏散(こんさん)先ず撲落することを。若し坐より起たば、除除として身を動かし、安詳として起つべし、卒暴(そつぼう)なるべからず。嘗(かつ)て観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、此の力に一任することを。況んや復、指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙するの紹契(しょうかい)も、未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず、豈神通修証(あにじんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。声色の外の威儀(いいぎ)たるべし、那(なん)ぞ知見の前の軌則に非ざる者ならんや。」
【いうところの坐禅というものは、さとりのための手段や心を落ち着かせるなどの手段の修行法ではありません。坐禅とは、ただ安らかに命や心を解放し安心の教えの入り口であり、悟りのためへの実践、実証するものです。獲物を捕る網や籠というものはいまだ遠くおよぶものではありません。もし、この真意を得ることができたのなら、それは、龍が水を得ることができ本来の力を発揮するように、虎が山に入って本来の威力を発揮するようなものです。
当に知るべき真実は、仏の真実はいつでも目の前にあらわれており、迷い悩む心の浮き沈むものはすべて消え去ります。
もし坐禅がおわり、立ち上がるさいには、徐々に身体を動かしほぐして静かに立ち上がるようにしてください。急いだり、乱暴にしてはいけません。
かつての例証には、迷いの世界(六道など)を超えて、仏や菩薩などの凡聖といったはからいを超えて、坐ったまま亡くなられる人も存在されたが、そのような力は坐禅から生まれたものである。
また、祖師方がお弟子を導く(坐禅以外で)に対して、心を働かせながら様々な方法によって何とかして導こうとするも意識分別で理解することができないのです。どうして(豈)神通力を得たとか、さとりを得ることができたなどを言うものにわかるのであろうか。声欲や色欲などによる感覚世界にとらわれ過ぎてはいけません。目の前にあるもの、あたり前の今をしっかりと受け止める事が重要である。(過去や未来ではなく、而今なのです)」

2022.02.21
道元禅師さまの著書である
『普勧坐禅儀』より
(坐禅の姿勢)
『乃(すなわ)ち正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌上の顎(あぎと)に掛けて、唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須らく常に開くべし。
鼻息(びそく)微かに通じ、身相(しんそう)既に調えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定して、箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。』
【まさしく上半身の姿勢を真っ直ぐにのばしてきちんと坐ります、左や右に傾いたり、前にかがんだり、後ろに反り返る(仰ぐ)ようにしてはいけません。耳と肩とが垂直になるようまっすぐにし、鼻とへそとがまっすぐになるようにすることが必要です。舌先を上顎の歯の付け根辺りにつけて、上下の唇を歯につけるようにしながら、口の中には空気を溜めるこなくします。目は普通に開いておきます。
鼻で静かに息をして、姿勢が調ったら、口を開けて長く息を吐きます。左右に身体を伸ばしながら倒し(左右揺振)て、山のようにどっしりと坐り、静寂にして不思量底を思量(思いはかること、考えることを何も思わない、考えないこと)するのです。不思量底を如何に史料するのかというと、それが非思量です。(心の意識の運転を止めるということ)これが坐禅の要術(かなめ)なのです。】


清水
御縁をありがとうございます。
駒大高校、駒澤大学卒業後平成13年冬に大本山永平寺(福井県)へ安居(修行)。平成15年より北海道へ修行。平成23年4月より皎月院へと戻り副住職として補佐をさせて頂いております清水亨龍(こうりゅう)です。 合掌
私の趣味はクライミング、スノーボードなど身体を動かす事です。また旅行も大好きです。ぜひ皆さま気軽にメールやお電話お待ちしております。
どうぞよろしくお願いします
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