
2021.07.13
本日7月13日お盆の入りです。
お盆の風習を守りながら短い間かもしれませんが
仏さまをおもてなししましょう。
今まで生きてこられた方々がなお亡くなりになられると仏さまとなるという解釈は一般的だと思います。命と言う姿や形こそ存在しないのかもしれませんが、仏さまは仏さまとして仏の世界にて存在し生きていると思います。それは、道元禅師さまが最期に残された遺偈にて
『渾身無覓 渾身(こんしん)覓(もと)むる無く
活陥黄泉 活きながら黄泉に陥(お)つ』

このように
死んであの世に行くのではなく、活きながら黄泉に行くとされております。ですので、仏さまとして黄泉の世界で今なお私たちを導く仏道修行、坐禅をされ続けていられることと思います。
その報恩として私たちも教えに従いながら、無駄な日は無いのです。日々の研鑚、仏道を精進して行かなければならないと再確認する私のお盆入りとなりました。
2021.07.01
今年も半年が過ぎ去りました。
道元禅師さまの著書に
「坐禅の修行をすることで、思いを手放し執着を捨て
心を空(くう)にすれば
真理と一体となったゆたかな境地が手に入る」
と説かれております。
手放せば手に入る
とは簡単なようでとても深い意味が込められていそうです。
私たちは、どんどん物が増えていってしまわないだろうか?
日常生活に使っている物であったり趣味の物であったりと
私も本やお香関連の物など増えてしまってます。
人は生きている間は、あれもこれも欲しくなってしまいますし
ああしたい、こうしたいという思いにどうしてもとらわれてしまいます。
道元禅師さまは、これらの欲望などの思いを手放すに
【坐禅】
こそが執着から解放されると説かれています。
坐禅に打ち込み雑念を手放しなさい。と
何かをつかんだまま次の何かをつかむのではなく
一度手放してみることです。手放すことでそこに新たに見えるものが違ってくるかもしれません。
《放てば手にみてり》

2021.05.11
梅花流詠讃歌の曲に供華(くげ)
「花供養御詠歌」があります。
この曲は道元禅師さまはが詠まれたとされる和歌(草庵の偶詠)でもあります。
仏さまやご先祖さまへお供えする花や供養をあらわしております。
「この心天(あま)つ空にも花供(はなその)ふ
三世(みよ)の仏に奉(たてまつ)らばや 奉らばや」

「この心」とは、坐禅の心持ちとも思いますが、
供養する心を大切にするならば、発心や菩提心といった解釈もできます。
この思い、心が、清らかなる澄んだ空に花を供えるように
「三世の仏」三世諸仏、過去・現在・未来の諸仏とも思いますが
それだけではなく、あらゆる仏さまと言う十方諸仏であり
あらゆる仏さまへまごころである慈悲の心を持ってお花をお供えする。
と受け止められます。
お供えをする私たちも慈悲の心であり、
お供えを受ける仏さまも慈悲の心で私たちを見守られてくださることでしょう。

2021.05.07
道元禅師さまは、百の知識を所持している者よりも、お袈裟を正しく身にまとうことが出来る者の方が
仏に身を寄せる者としてはすばらしいと申してもおります。
それは、近年インターネットの普及によりすぐさま知識を得ることはできますが、
実際に行い体験、経験することによって得るものとでは全く違うからであります。
特に坐禅においては、脚を組むことです。
決して怪我をするような無理はいけませんが、
正座と同じく、坐ることによって足の痛さを体験すること。それは坐らなければわからないことです。
「千聞は一見にしかず、千見は一写にしかず」という
古いことわざがあるようですが、
道元禅師さまは同じようなお言葉で
「千見万聞たとひありとも、一得にしかず」と『正法眼蔵』にあります。
【千のものを見分ける分別があり、万もの知識があったとしても、
一つのことをしっかりとやれることができる素晴らしさには、かなうものはない】

とことん突き進む大切さを感じられます。

清水
御縁をありがとうございます。
駒大高校、駒澤大学卒業後平成13年冬に大本山永平寺(福井県)へ安居(修行)。平成15年より北海道へ修行。平成23年4月より皎月院へと戻り副住職として補佐をさせて頂いております清水亨龍(こうりゅう)です。 合掌
私の趣味はクライミング、スノーボードなど身体を動かす事です。また旅行も大好きです。ぜひ皆さま気軽にメールやお電話お待ちしております。
どうぞよろしくお願いします
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