2022.02.28
道元禅師さまの『普勧坐禅儀』より
本論の続き
「所謂(いわゆる)坐禅は習禅には非ず。唯是れ安楽の法門なり、菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成、羅籠未(らろういま)だ到らず。若し此の意を得ば、竜の水を得るが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。当に知るべし、正法自ら現前し、昏散(こんさん)先ず撲落することを。若し坐より起たば、除除として身を動かし、安詳として起つべし、卒暴(そつぼう)なるべからず。嘗(かつ)て観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、此の力に一任することを。況んや復、指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙するの紹契(しょうかい)も、未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず、豈神通修証(あにじんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。声色の外の威儀(いいぎ)たるべし、那(なん)ぞ知見の前の軌則に非ざる者ならんや。」
【いうところの坐禅というものは、さとりのための手段や心を落ち着かせるなどの手段の修行法ではありません。坐禅とは、ただ安らかに命や心を解放し安心の教えの入り口であり、悟りのためへの実践、実証するものです。獲物を捕る網や籠というものはいまだ遠くおよぶものではありません。もし、この真意を得ることができたのなら、それは、龍が水を得ることができ本来の力を発揮するように、虎が山に入って本来の威力を発揮するようなものです。
当に知るべき真実は、仏の真実はいつでも目の前にあらわれており、迷い悩む心の浮き沈むものはすべて消え去ります。
もし坐禅がおわり、立ち上がるさいには、徐々に身体を動かしほぐして静かに立ち上がるようにしてください。急いだり、乱暴にしてはいけません。
かつての例証には、迷いの世界(六道など)を超えて、仏や菩薩などの凡聖といったはからいを超えて、坐ったまま亡くなられる人も存在されたが、そのような力は坐禅から生まれたものである。
また、祖師方がお弟子を導く(坐禅以外で)に対して、心を働かせながら様々な方法によって何とかして導こうとするも意識分別で理解することができないのです。どうして(豈)神通力を得たとか、さとりを得ることができたなどを言うものにわかるのであろうか。声欲や色欲などによる感覚世界にとらわれ過ぎてはいけません。目の前にあるもの、あたり前の今をしっかりと受け止める事が重要である。(過去や未来ではなく、而今なのです)」
清水
御縁をありがとうございます。
駒大高校、駒澤大学卒業後平成13年冬に大本山永平寺(福井県)へ安居(修行)。平成15年より北海道へ修行。平成23年4月より皎月院へと戻り副住職として補佐をさせて頂いております清水亨龍(こうりゅう)です。 合掌
私の趣味はクライミング、スノーボードなど身体を動かす事です。また旅行も大好きです。ぜひ皆さま気軽にメールやお電話お待ちしております。
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